「土呂」の由来

 名義について「武蔵国郡村誌」には「土人伝へ云ふ、本村往古は見沼に枕みたる平林にして、戸数四十五戸ありて土質に住し、魚猟を業とす。
 因て土爐と号せしか嘉慶(南北朝時代)の頃より土呂村と号せりと」と記されている。
しかし「トロ」とは静かに水をたたえているところ、水のよどんでいるところの義であるから、瀞と同義である。
 したがって、上尾市の東部の低地から発した芝川の水流がここで滞って瀞の状態をなしたので、その名を得たとみられる。

土呂の歴史

 天正十八年(1590年)甲斐武田家家臣の
初鹿野昌久が徳川家康に仕え、関東入国に伴って土呂村の領主となりました。
以降江戸時代、初鹿野氏により統治されていたと思われます。
土呂二丁目下地区には初鹿野氏が甲州より氏神として勧請した御岳社や墓守堂とした地蔵堂が現存しています。
 享保13年には新田開発の為、見沼代用水が整備されました。また、これにより水運もひらけ、見沼西縁代用水では見沼通船の土呂河岸が川島橋の南側にあったようです。
 明治6年、神明社が土呂村の村社となり戦前は神楽が奉納されていました。
現在も夏祭りとして神輿の渡御が7月に行われています。
また、この地には「土呂の大杉」がご神木として聳えていましたが、昭和45年樹齢がつき、伐採されました。
 昭和54年には「市民の森」が見沼用水の東側に造成され、市民の憩いの場になっています。
 又昭和58年10月待望の土呂駅が開業し、都心へのアクセスが飛躍的に便利になりました。